十字架、それは救いの切り札

十字架、それは救いの切り札

「キリスト教の強みは、十字架をもっていることだ」
と世界的な禅の大家鈴木大拙氏が語られました。
キリスト教には、他の宗教がもっていない救いの切り札があります。
歴史的事実である
十字架です。

今、わたしは三浦綾子氏の有名な小説「氷点」の中の一節を思い出します。
美しい主人公である陽子は、自分が殺人犯の子であり、
しかも、自分の父が殺してしまった娘の両親によって
育てられてきたことを知った時、
人間の罪というものがどんなに恐ろしいものであるか、
どんなに多くの人を不幸にするかを知っておののくのでした。
同時に、自分自身の中にも罪があり、
人々を不幸にする可能性を
宿していることを知り悲しみに打ちひしがれ、
自分に絶望し、人生に絶望してしまうのでした。
ついに死を決意した陽子は、
養父母に遺書を記します。
「私は今まで、こんなに・・・ゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。
けれども、今『ゆるし』がほしいのです。・・・
私の血の中を流れる罪をハッキリと『ゆるす』と言ってくれる
権威あるものがほしいのです」。

この陽子の叫びは、自分の真相を知り、
自分自身の限界を知った人間の魂の叫びではないでしょうか。
ここに「十字架」という絶対の切り札を持っているキリスト教の力があるのです。
神は絶対の正義でありますから、
罪を見逃すことも、汚れと妥協することもおできになりません。
罪は罪として審判しなければなりません。
しかし同時に、神は愛でありますから、
一人の人が滅びるのもお望みになりません。
それでは、この逆説、難題を神はどう解決されたのでしょうか。
神は愛でありました。
神の愛は審判にまさりました。
神は私たちに対する愛のゆえに、
最愛のひとり子イエス・キリストをこの世界におつかわしになり、
罪びとである私たちを罰しないで、
イエス・キリストに全人類の罪を背負わせ、
身代わりとして十字架の上に死なせられたのです。
この完全な犠牲、流された尊い血のゆえに
、神はイエス・キリストの十字架を、
自分の罪の身代りと信じ受け入れるものに、
罪のゆるしと永遠の命を約束されました。
聖書にこう記されています。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(同1:9)。
「イエス・キリストは、わたしたちの罪のための、
あがないの供え物(身代わりの犠牲)である。
ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(同2:2)。

イエス・キリストが罪も汚れもない神のひとり子であり、
その犠牲はあまりにも高価で完全なものでありましたので、
それは当時の人々のためだけではなく、
全人類の過去、現在、未来にわたる
すべての罪の借金を支払うに十分なものでありました。
それゆえ、きょうもイエス・キリストの十字架は、
罪がゆるされるための、唯一絶対の切り札なのです。
きょう、十字架を見上げましょう。
十字架、それは愛です。十字架、それは救いの切り札です。
「神は愛なり」。