アンネのバラ
皆さんは、「アンネのバラ」を知っていますか?
そう、「アンネの日記」の著者アンネ・フランクの形見と呼ばれる、美しいバラです。
1973年春、日本で初めて、京都に花を開き、
今では東京、大阪、奈良、高松、岡山など、至る所にその香りを放つようになっています。
なぜ、そんなバラが、日本に?とお思いでしょう。
それには、こんなエピソードが秘められているのです。
出会い
1971年4月4日のことでした。
しののめ合唱団(学生、社会人、聖職者などで構成されるクリスチャンのアマチュア合唱団)の一行30名は、演奏旅行の途中、イスラエルの小都市ナタニヤの施設を訪れたあと、とあるレストランで昼食をとっていました。
そこへ、一人の上品な紳士が入ってこられ、興奮したようすで話しかけられました。
「わたしはユダヤ人ですが、オランダ市民でもあります。わたしは、世界で一番平和を愛するものです。
なぜなら、わたしはナチスによる恐ろしい迫害を経験した者だからです。わたしは日本に多くのペン・フレンドを持っています。皆さんも、きっとわたしの娘のことをよくご存知と思います。
わたしは、アンネの父、オットー・フランクです。」
一同は、ぼう然とし、思わず総立ちになっていました。やがて、我にかえったように、拍手がまきおこり、心にわき上がる思いを歌に託して、数曲の歌(日本の歌とアンネが、狭い隠れ家で慕い求めた祖国イスラエルの民謡)を合唱したのでした。
この感動的な出会いから、合唱団を代表して大槻道子さんとフランク氏との間に文通を通して、深い友情が生まれていきました。
隠れ家で
アンネ一家は、もと、ドイツに住んでいましたが、ヒトラーが政権を握った1930年代のはじめ、オランダに移住しました。ところが、第二次世界大戦が起こり、オランダがドイツ軍に占領されたときから、苦難の時が始まったのです。
「外の様子は言葉では言い表せません。夜となく昼となく、かわいそうなユダヤ人が、リュックサック一つにわずかばかりのお金を持っただけで、引き立てられて行きます。途中で彼らは、こうした持ち物さえも奪われます。男、女、子供は別々にされ、家族は生木を裂くように、別れ別れにされます。子供が学校から帰ると、両親の姿は見えません。女が買い物からかえってみると、家はくぎづけにされ、家族はいません。」
ユダヤ人であるという、それだけの理由で、この人たちがどのような目にあわされたか、知っているでしょう?家畜のように貨車につめこまれ、強制収容所に送られます。そこでは、はだかにされてガス室へ送られ、あるいは銃弾をあびせられ、ある人たちは、重労働にかりだされ、倒れて動けなくなると、生きたままブルドーザーで穴に埋められていきました。・・・・・。
アンネ一家は、この迫害をのがれるため、オランダのプリンセン堀に面する建物の、奥の三階、四階に隠れ住むことになりました。
「太陽が輝き、空はまっ青です。外には気持ちのいい微風が吹いています。わたしはお話がしたい、自由がほしい、ああ、わたしはすべてにあこがれています。わたしは思う存分泣いてみたい。わたしは今にも泣き出しそうな気がします。泣けばさっぱりするでしょう。しかしわたしは泣けません。一歩も外出できないということが、こんなに息苦しい気持ちか、あなたに説明することはできません。また、わたしは、見つかって殺されやしないかと、とても心配です。そんなことを考えるのは、気持ちのいいものではありません。」
このような隠れ家での生活の中で、少女アンネの心は、何を考え、何を願っていたのでしょうか?
「戦争が何の役にたつのでしょうか。なぜ人間は仲よく、平和に暮らせないのでしょうか。この破壊は、いったい何のためなのでしょうか。毎日、戦争のために何百万というお金を使いながら、どうして医療施設や、貧しい人たちのために使うお金が一文もないのでしょうか。世界には食物がありあまって、腐らしているところがあるのに、どうして餓死しなけらばならない人がいるのでしょうか。」(1944.5.3)
「あらゆる不自由を忍んで、不平をいってはいけません。自分のできるかぎりのことをして、あとは神様を信頼しなければなりません。わたしたちを現在のような境遇にしたのは神様であり、わたしたちを再び引き上げて下さるのも神様でしょう。勇気をもちなさい。解決の時は来ます。神様は決して、わたしたちユダヤ人を見捨てたことはありません。」(1944.4.11)
収容所へ
二年が過ぎました。連合軍がようやく反撃に転じ、ノルマンディー半島に上陸作戦を開始した1944年6月6日、ラジオを聞きながら、一家はおどり上がって喜びました。オットー氏は毎日、地図にピンを押しながら、連合軍の進撃のもようを説明し、解放の日を心待ちにしたのでした。しかし、ついに8月4日、ナチスの秘密警察は隠れ家に踏みこみ、8人の住人を連行したのでした。
父、母と別れ別れにされ、アウシュビッツからベルゲンベルゼン収容所に送られ、そこで姉のマルゴットをも、チフスで失った時、地獄のような収容所でもなお希望を捨てず、明るくけなげに行きぬいてきたアンネも、ついに最後の気力が尽き、静かに息をひきとったのでした。
連合軍による解放を目前にした1945年2月、アンネ15歳の冬でした。
アンネのバラ
1972年クリスマス、大槻道子さんのもとに、すばらしいプレゼントが届きました。
「アンネの形見」と名付け、オットー・フランク氏が非常に愛して育てておられるバラの苗が10株でした。
ところが、外国から来る植物は悪い病気や害虫がいっしょに国内に持ちこまれるのを防ぐために、きびしい検疫を受けなければならず、おまけにクリスマスの頃は荷物が大変こむことも重なって、届くまでに一ヶ月以上もかかってしまったのでした。そのため、苗は茶かっしょくになり、枯れる寸前の状態でした。祈るような気持ちで、必死の努力を続けた結果、ようやくのことで、10株の内ただ1株だけが根づき、翌年の春、はじめて美しい花を開いたのでした。
ふちに紫がさした濃いクリーム色の花は、アンネの心のふる里エルサレムのしののめの光さながらに輝き、強い香気が、平和の祈りのようにたちこめます。
アンネの仕事
1975年10月、合唱団は再びスイスのバーゼルにオットー・フランク氏をたずねました。
86歳になられる氏は、こう言われます。「いつかわたしには、目覚めない朝が来ます。今日は、恵みによって目覚めることができました。さあ、アンネの仕事を、一生懸命しよう。アンネは『もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしは世界と人類のために働きたい』と言い続けて死にました。だからわたしは、アンネの仕事をしなければならない」と。
悪夢のような戦争が終わって、約70年以上が過ぎました。皆さん方の多くは、映画やテレビでしか、戦争をしらないかもしれません。しかし、世界は本当に平和を獲得することができたのでしょうか?あれほどナチスやヒトラーを責め、批判した人類は、それではもう二度とあのようなおろかな悲劇をくり返さないと言えるのでしょうか?いいえ、それどころか、現実の世界はとみると、一歩誤れば人類絶滅の危機にさえ、さらされているのです。
アンネは、日記の中に、こう書いています。
「わたしは偉い人や、政治家や、資本家だけに戦争の責任があるのだとは思いません。いいえ、決してそうではありません。一般の人たちにも罪があります。・・・・・人間には破壊と殺人の本能があります。そして人類が一人の例外もなく全部、大きな変化を経るまでは、戦争の絶え間はなく、建設され、つちかわれ、育てられたすべてのものが破壊され、ゆがめられ、人類はまた最初からすべてをやり直さなければならないでしょう。」
わたしたち一人一人の内にある、人を憎み、うらみ、ねたむ心こそ、争い、破壊、戦争の根本的な原因であると指摘しているのです。そして聖書は、このアンネの叫びをうらづけるように、人類一人一人が平和そのものであられる神様との出会い神様を心の中に宿さなければ、真の平和を達成できないこと、又、世界の平和の中心となるべきエルサレムに、平和が確立されなければ、世界に本当の平和、いつまでも続く平和は来ないことを教えているのです。
アンネの日記を読み、アンネのバラの気高い香りにふれ、そしてアンネの写真展をご覧になって、あなたもきっとそのようにお感じになるのではないでしょうか?
わたしたち一人一人の心の中に、平和の神様をお迎えし、わたしたちも、アンネの祈りをうけつぎ、平和のバトンを握って走ろうではありませんか。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5・9)
そう、「アンネの日記」の著者アンネ・フランクの形見と呼ばれる、美しいバラです。
1973年春、日本で初めて、京都に花を開き、
今では東京、大阪、奈良、高松、岡山など、至る所にその香りを放つようになっています。
なぜ、そんなバラが、日本に?とお思いでしょう。
それには、こんなエピソードが秘められているのです。
出会い
1971年4月4日のことでした。
しののめ合唱団(学生、社会人、聖職者などで構成されるクリスチャンのアマチュア合唱団)の一行30名は、演奏旅行の途中、イスラエルの小都市ナタニヤの施設を訪れたあと、とあるレストランで昼食をとっていました。
そこへ、一人の上品な紳士が入ってこられ、興奮したようすで話しかけられました。
「わたしはユダヤ人ですが、オランダ市民でもあります。わたしは、世界で一番平和を愛するものです。
なぜなら、わたしはナチスによる恐ろしい迫害を経験した者だからです。わたしは日本に多くのペン・フレンドを持っています。皆さんも、きっとわたしの娘のことをよくご存知と思います。
わたしは、アンネの父、オットー・フランクです。」
一同は、ぼう然とし、思わず総立ちになっていました。やがて、我にかえったように、拍手がまきおこり、心にわき上がる思いを歌に託して、数曲の歌(日本の歌とアンネが、狭い隠れ家で慕い求めた祖国イスラエルの民謡)を合唱したのでした。
この感動的な出会いから、合唱団を代表して大槻道子さんとフランク氏との間に文通を通して、深い友情が生まれていきました。
隠れ家で
アンネ一家は、もと、ドイツに住んでいましたが、ヒトラーが政権を握った1930年代のはじめ、オランダに移住しました。ところが、第二次世界大戦が起こり、オランダがドイツ軍に占領されたときから、苦難の時が始まったのです。
「外の様子は言葉では言い表せません。夜となく昼となく、かわいそうなユダヤ人が、リュックサック一つにわずかばかりのお金を持っただけで、引き立てられて行きます。途中で彼らは、こうした持ち物さえも奪われます。男、女、子供は別々にされ、家族は生木を裂くように、別れ別れにされます。子供が学校から帰ると、両親の姿は見えません。女が買い物からかえってみると、家はくぎづけにされ、家族はいません。」
ユダヤ人であるという、それだけの理由で、この人たちがどのような目にあわされたか、知っているでしょう?家畜のように貨車につめこまれ、強制収容所に送られます。そこでは、はだかにされてガス室へ送られ、あるいは銃弾をあびせられ、ある人たちは、重労働にかりだされ、倒れて動けなくなると、生きたままブルドーザーで穴に埋められていきました。・・・・・。
アンネ一家は、この迫害をのがれるため、オランダのプリンセン堀に面する建物の、奥の三階、四階に隠れ住むことになりました。
「太陽が輝き、空はまっ青です。外には気持ちのいい微風が吹いています。わたしはお話がしたい、自由がほしい、ああ、わたしはすべてにあこがれています。わたしは思う存分泣いてみたい。わたしは今にも泣き出しそうな気がします。泣けばさっぱりするでしょう。しかしわたしは泣けません。一歩も外出できないということが、こんなに息苦しい気持ちか、あなたに説明することはできません。また、わたしは、見つかって殺されやしないかと、とても心配です。そんなことを考えるのは、気持ちのいいものではありません。」
このような隠れ家での生活の中で、少女アンネの心は、何を考え、何を願っていたのでしょうか?
「戦争が何の役にたつのでしょうか。なぜ人間は仲よく、平和に暮らせないのでしょうか。この破壊は、いったい何のためなのでしょうか。毎日、戦争のために何百万というお金を使いながら、どうして医療施設や、貧しい人たちのために使うお金が一文もないのでしょうか。世界には食物がありあまって、腐らしているところがあるのに、どうして餓死しなけらばならない人がいるのでしょうか。」(1944.5.3)
「あらゆる不自由を忍んで、不平をいってはいけません。自分のできるかぎりのことをして、あとは神様を信頼しなければなりません。わたしたちを現在のような境遇にしたのは神様であり、わたしたちを再び引き上げて下さるのも神様でしょう。勇気をもちなさい。解決の時は来ます。神様は決して、わたしたちユダヤ人を見捨てたことはありません。」(1944.4.11)
収容所へ
二年が過ぎました。連合軍がようやく反撃に転じ、ノルマンディー半島に上陸作戦を開始した1944年6月6日、ラジオを聞きながら、一家はおどり上がって喜びました。オットー氏は毎日、地図にピンを押しながら、連合軍の進撃のもようを説明し、解放の日を心待ちにしたのでした。しかし、ついに8月4日、ナチスの秘密警察は隠れ家に踏みこみ、8人の住人を連行したのでした。
父、母と別れ別れにされ、アウシュビッツからベルゲンベルゼン収容所に送られ、そこで姉のマルゴットをも、チフスで失った時、地獄のような収容所でもなお希望を捨てず、明るくけなげに行きぬいてきたアンネも、ついに最後の気力が尽き、静かに息をひきとったのでした。
連合軍による解放を目前にした1945年2月、アンネ15歳の冬でした。
アンネのバラ
1972年クリスマス、大槻道子さんのもとに、すばらしいプレゼントが届きました。
「アンネの形見」と名付け、オットー・フランク氏が非常に愛して育てておられるバラの苗が10株でした。
ところが、外国から来る植物は悪い病気や害虫がいっしょに国内に持ちこまれるのを防ぐために、きびしい検疫を受けなければならず、おまけにクリスマスの頃は荷物が大変こむことも重なって、届くまでに一ヶ月以上もかかってしまったのでした。そのため、苗は茶かっしょくになり、枯れる寸前の状態でした。祈るような気持ちで、必死の努力を続けた結果、ようやくのことで、10株の内ただ1株だけが根づき、翌年の春、はじめて美しい花を開いたのでした。
ふちに紫がさした濃いクリーム色の花は、アンネの心のふる里エルサレムのしののめの光さながらに輝き、強い香気が、平和の祈りのようにたちこめます。
アンネの仕事
1975年10月、合唱団は再びスイスのバーゼルにオットー・フランク氏をたずねました。
86歳になられる氏は、こう言われます。「いつかわたしには、目覚めない朝が来ます。今日は、恵みによって目覚めることができました。さあ、アンネの仕事を、一生懸命しよう。アンネは『もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしは世界と人類のために働きたい』と言い続けて死にました。だからわたしは、アンネの仕事をしなければならない」と。
悪夢のような戦争が終わって、約70年以上が過ぎました。皆さん方の多くは、映画やテレビでしか、戦争をしらないかもしれません。しかし、世界は本当に平和を獲得することができたのでしょうか?あれほどナチスやヒトラーを責め、批判した人類は、それではもう二度とあのようなおろかな悲劇をくり返さないと言えるのでしょうか?いいえ、それどころか、現実の世界はとみると、一歩誤れば人類絶滅の危機にさえ、さらされているのです。
アンネは、日記の中に、こう書いています。
「わたしは偉い人や、政治家や、資本家だけに戦争の責任があるのだとは思いません。いいえ、決してそうではありません。一般の人たちにも罪があります。・・・・・人間には破壊と殺人の本能があります。そして人類が一人の例外もなく全部、大きな変化を経るまでは、戦争の絶え間はなく、建設され、つちかわれ、育てられたすべてのものが破壊され、ゆがめられ、人類はまた最初からすべてをやり直さなければならないでしょう。」
わたしたち一人一人の内にある、人を憎み、うらみ、ねたむ心こそ、争い、破壊、戦争の根本的な原因であると指摘しているのです。そして聖書は、このアンネの叫びをうらづけるように、人類一人一人が平和そのものであられる神様との出会い神様を心の中に宿さなければ、真の平和を達成できないこと、又、世界の平和の中心となるべきエルサレムに、平和が確立されなければ、世界に本当の平和、いつまでも続く平和は来ないことを教えているのです。
アンネの日記を読み、アンネのバラの気高い香りにふれ、そしてアンネの写真展をご覧になって、あなたもきっとそのようにお感じになるのではないでしょうか?
わたしたち一人一人の心の中に、平和の神様をお迎えし、わたしたちも、アンネの祈りをうけつぎ、平和のバトンを握って走ろうではありませんか。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5・9)