受けつごう平和のバトン
「アンネの日記」
「もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、・・・
わたしは世界と人類のために働きます。」
(アンネ・フランク)
アンネ・フランク(1929-1945)
「アンネの日記」と言えば、知らない人がいないほど有名な本です。
世界の55ヶ国語以上の言語に訳され、劇や映画にもなり、
今なお多くの人々を魅了している
「アンネの日記」。
その発行部数は2500万部を超えるといわれる「アンネの日記」は
どのようにして本になったのでしょうか。
「アンネの日記」を書いたのは、
アンネ・フランクという一人のユダヤ人の少女です。
しかも、それを書いたのは、第二次世界大戦の最中、
ドイツナチスのユダヤ人迫害の手を逃れて一家が身を潜めた、
オランダのアムステルダムの隠れ家の中でした。
日記はアンネの心の叫びであり、
それはまた、全世界に対する平和のメッセージでもあります。
アンネ一家の軌跡
アンネは、ドイツのフランクフルトで1929年6月12日、
父オットー、母エーディットの次女として生まれました。
姉は3歳年上のマルゴットです。
4人家族の幸せな日々は、
1933年ヒトラーがドイツの首相となってからすべてが変わっていきました。
ヒトラーのユダヤ人への敵対的な政策に危険を感じたオットー氏は、
オランダのアムステルダムに移り、そこで仕事を始めました。
しかし、1939年、ヒトラーの率いるナチスドイツの軍隊は、
3月にチェコに、そして9月にはポーランドに攻め込み、
これに反対するイギリスとフランスが宣戦布告し、
ここに第二次世界大戦が始まったのです。
そして翌年の1940年5月、ナチスドイツはオランダにも攻め込み、
たった4日で占領してしまったのです。
そして、ある日、アンネの姉マルゴットへのドイツ軍からの
「呼び出し状」が届いたのを機に、
父オットー氏は家族ごと「隠れ家」へと身を隠しました。
それはアンネが13歳の誕生日にお父さんから贈られた日記を書き始めて、
まだ一ヶ月も経たない7月6日のことでした。
外に一歩も出ることができない二年余りの過酷な「隠れ家」での潜伏生活の中で、
アンネは日記を書き続けました。
彼女の日記は密告による発覚で、
全員が逮捕され、強制収容所に送られた
1944年8月4日の3日前の8月1日で終わっています。
床に落ちていたアンネの日記
隠れ家にナチスのゲシュタポが踏み込み、
アンネの家族を含む合計8人は、車に乗せられ強制収容所へと送られました。
その中で、終戦まで生き残ったのは、アンネの父オットー氏だけでした。
戦後オットー氏が一人アムステルダムの隠れ家の跡を訪れた時、
隠れ家の住民を命がけで支え続けてくれたミ-プさんが
「これがあなたの娘のアンネがあなたに遺したものです。」
と渡してくれた物がありました。
それは、ゲシュタポによる家宅捜索が終わり、
隠れ家の住民全員が連れ去られた後、
床の上に散らばっていた物の中にあった「アンネの日記」でした。
ミープさんがそれを拾い、守っていてくれたのです。
友人達の中にはアンネの日記を完全な形で出版すべきだと勧める方もいましたが、
オットー氏は最初あまり気が進みませんでした。
しかしアンネの日記を読んでいく内に、
アンネの将来の希望は、作家となりたかったこと、
また、戦争が終われば『隠れ家』という題の本を書きたいと願っていたこと、
そして何よりも
「もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、・・
わたしは世界と人類のために働きます。」
という平和を願うアンネの願いを知った時、
オットー氏は日記の出版を決意したのです。
そして自らも決意しました。
わたしも生きる限り、アンネの願いである世界の平和のために働こうと。